富士山登山記 2008　その四

　（ 「富士山登山記 2008　その三」　からの続き ）

● 大陽館入り口にて

　こうして私は6時6分、宿泊予定地の7合目大陽館に到着した。
　7合目の標高は2950m。出発点の5合目が2000mだから、およそ千メートル登ったことになる。
　よく登った。でも終わってみればまだそんなに疲れている感じはなかった。


　大陽館（太陽館ではない）は収容者数150名。去年の白雲荘が800名だったのだから、それから比べると随分小規模だ。実際外からも大きな山小屋には見えなかった。
　このあたり、バスツアーなどによる団体客の多い河口湖口と、個人客がメインの須走口との違いだろう。

　小屋は黒っぽく、あまり明るいイメージではない。そして入口のところにいたお兄さんも強面（こわもて）で、やはりあまりいい印象を持てなかった。
　もしネットで「スタッフ全員親切で中に入るとほっとする雰囲気がある」などという情報を知っていなかったら、利用しなかったと思う。

　しかし須走口は山小屋が少ない。もしこの大陽館に泊まらないと次は更に1時間も登ったところにある見晴館しかない。
　そこで私はその強面の男のところに近寄っていった。私に気づいたその男が「お泊りですか？」と尋ねてきた。

「はい。1名で、予約してないんですけれど」
「大丈夫ですよ」

　やはりそう言われれば嬉しい。予想以上に登山客が多かったから「ひょっとしたら予約なしではダメなのでは」という不安もあったからだ。

　中途半端な場所で待っていたら、その強面男に「もっと中に入ってください」と注意された。これは邪険にされたというよりも、まだ雷が鳴りやまずにいたため「危険だから」という意味だったのだろう。

　入口すぐのところに受付・・・っていうか、フロントの窓口がある。
　前の人の手続きが終え、私の番になった。
　そして宿帳のようなものを出され、住所氏名を書くように言われた。
　「へえ」と思った。実は去年の白雲荘のときは名字を聞いてきただけだったんだ。

　次に、「素泊まりですか？」と尋ねられたんで、「食事もお願いします」と答えた。

「朝はどうします？」
「朝もお願いします」

　すると朝食は5時限定ということだった。そりゃご来光を見る場合には4時にはもう起きているのだからいいといえばいいのだが、ちょっと早過ぎる。

「じゃ、お弁当でお願いします」

　決まった時間に食わされるよりも、好きな時間に自分で食べた方がいいでしょ。どうせ去年の白雲荘のときはいやでもお弁当だったしね。

　料金は8,925円で、例えば去年泊まった白雲荘の7,350円に比べると2割ほど高い。その代わり「富士山の山小屋では随一といわれる夕食」が出ることになっている。

● 寝床に案内される

　「ではお入りください」とスタッフに案内される。
　まずは靴はポリ袋に入れるように指示された。また濡れている上着も同じくポリ袋に入れるように指示される。

　寝室は多くの山小屋がそうであるように二段ベッド。もうかなりの人がそこにいた。

　私が案内された場所には父と息子の2人がいた。一応一角は4人ずつになっていて、その右側2つを彼らが占めていて、とりあえずは残りの左側2つを私が使っていいことになった。

　といっても、元々2つ分で普通なら1人分ぐらいの幅しかないのだからたいしたことはない。そのうちもう1人押し込められたらえらく狭くなるしね。

　スタッフはそこでまた細かい注意を始めた。主なる注意点は、「寝床では飲食は禁止であること」と「絶対に布団を濡らさないこと」だ。

　その布団は驚いたことに寝袋になっていた。その代わり、いわゆる掛け布団はない。
　まあこの方が山小屋側には好都合なんだろう。寝袋に押し込めれば寝相が悪くても隣の人に迷惑をかけることもなくなるしね。

　先客に「よろしくお願いします」と声をかける。するとお父さんがこう言ってきた。

「こちらこそ、こういうやつなんで、迷惑をかけるかもしれませんが、寝てしまえば静かになりますから」

　「こういうやつ」の理由はすぐに分かった。いわゆる知的障害者の子だったのだ。だからはっきりとした言葉は喋っていなかった。
　でも私は「同室」がそういう人でむしろほっとした。昼間出会ったハイテンションな若者たちなんかだったら、困るもの。

　「それにしても暗いな」と思っていたら、どうやら雷のせいで灯りが使えない状態らしい。
　だから小さな懐中電灯が大いに役に立った。っていうか、なかったら大変なことになっていた。やはり山小屋では小さくていいから懐中電灯が必須だ。

● トイレと奇妙ないびき

　寝床にいてもすることがない。だから一度外に出て夕景でも撮影してみようと思った。

　ところが入り口から出ようとすると、「外に出ないで下さい」とスタッフに注意されてしまった。
　まだ雷が治まっていないということで、こちらの身の安全を考えてくれているのだろうが、ちょっと怖い。

　とにかく山小屋中暗くて何も写せない。しょうがなくこれを写した。


　トイレです。ちゃんと簡易水洗式になっていて、大を出したら自分で柄杓（ひしゃく）で水をかける。

　私は小だったのに大用のトイレに入っておしっこをしてから柄杓（ひしゃく）で水をやってみた。
　するとその重みで底にあるフタが開いて下に落ちていくのだ。面白い。ちなみに紙もそのまま流していいそうだ。
　とても清潔で嫌な臭いは一切なかった。素晴らしい。

　昔は富士山のトイレは垂れ流しで大変評判が悪かったのだが、ここ数年で劇的に改善されているのだ。

　することがないんでまた寝床に戻った。そのとき、雷のせいで灯りが点かないため夕飯が遅れるという案内があった。
　しょうがなく寝にかかった。

　ところが、去年もそうだったけれど、枕が高くてまるで合わない。そこでしょうがなくセーターを引っ張り出してきて、そこに頭を乗せた。

　でもどうやっても違和感を感じる。どうやっても首に負担が来る（実は私はちょっと首を痛めている）。
　この態勢で一晩寝るというのは、かなりしんどそうだ。もし寝ている間に首の負担が増えれば、翌日ずっとそれが尾を引く可能性もある。
　「まずいことになったなあ」と私は思っていた。

　そのうち、隣の親子が寝始めた。すると知的障害者の子供の方が、

「フギャフギャア！ホゲアゲ！」

とものすごい声を立て始めた。
　最初は静かに呼吸しているんだ。しかし突然それが始まる。
　つまりうまく呼吸できていない感じなんだ。で、息がつまって爆発的にその音響を発するんだ。

　おいおいおい。とんでもないやつの隣に来ちまったな！

● 寝床にて

　更にそのうち、気持ち悪さにも襲われ始めた。7時ぐらいのことだ。
　もちろんこれも高山病なのかもしれない。しかし私にはそれが首から来ている感じがしてならなかった。

　そのうち、私の左隣のブロックに新客が入ってきた。実はそのブロック、それまでは私みたいなおっさんが1人だけでいたんだ。
　そこに入ってきたのは女性客だった。それも3人。それも比較的若い女性。
　へえ。同じブロックに男女を混ぜこぜで入れてしまうんだ。それも全くの他人を。なかなかすごいね。だったら私もそのブロックの方がよかったよなあ。

　そのうちそのブロックのおじさんも寝始めた。でもおじさんはとても静かな寝息を立てていた。
　「やれやれ。こっちは救われたな」と思っていた私だった。

　またそのうち、スタッフによる案内がある。
　雷がやまないため、食堂兼広間に避難している人たちを外に出すことができない。だから雷がやむまで夕食を待ってほしいというものだった。

　もうとっくに7時は過ぎていた。それなのに宿泊客は誰一人文句を言わない。これには本当に感心してしまった。

　最近はつまらないことにすぐイチャモンをつける、いわゆる「クレーマー」が問題になっている。しかしこの日の大陽館の宿泊客たちは「古きよき時代の日本人たち」だったようだ。

● 食堂にて

　8時になってやっと食事の支度ができたという案内があった。ただ食堂にはまだ避難客がいるようで、順番に名前を呼んでいくということだった。
　残念ながら私は第一便には入れてもらえなかった。多分宿泊手続きをした順なのだろう。

　私が呼ばれたのは8時40分だった。
　しかし私は高山病にやられてフラフラしていた。食欲などゼロだったし、とてもまともに食べられそうな感じがしなかった。

　とにかく私は8人テーブルの1つに座った。周りを囲んだのは女性客だった。
　でもそんなに若い連中ではない。多分30〜40代ぐらいだろう。

　ほとんどの山小屋では発泡スチロール皿に入ったカレーライスが定番なのに、ここの食事は本当にすごい。
　まずはお重の中には、ハンバーグ、キャベツ、サンマの蒲焼き、昆布の佃煮などが入っている。
　で、更に暖かいご飯と豚汁はおかわり自由！間違いなく「富士山の山小屋では随一」だろう。

　残念だったのは、まだ灯りが完全に復旧していなかったせいで、暗くてデジカメでその内容を写せなかったことだ。個人的にはこれがとても不満だった。

　周りを囲った女性のうち、私の正面にいた女性がご飯をよそってくれそうになったんで、私はそれを遠慮した。
　まるで食欲がなかったからだ。
　だから最初、ご飯も豚汁も軽くよそった。

　ところが食べ始めてみて、びっくり。
　おいしい。

　ご飯も豚汁も、そしてその他のおかずも大変おいしかった。不満があるとしたらハンバーグが冷たかったことぐらいだ。

　自分の食欲に驚き、おかわりをした。
　で、更におかわり。いくら軽くとはいえ、結局3杯も食べてしまった。

　その間、周りの女性たちの会話を聞いていた。そしたら高山病にやられたらしく、頭痛を訴える女性が多かった。

　そのうちの1人の女性は、この大陽館名物の「風船治療」を行い、かなり気分がよくなったという。

　風船治療っていうのは、風船を膨らますことで意識的に腹式呼吸を行わせ、それによって酸素不足を解消させようとするもの。私もネットでこのことを知っていて、「何と至れり尽くせりの山小屋なんだろう」と感心したものなのだ。

　流石に私は風船治療をやってもらおうとは思わなかったが、それを聞いて深呼吸がいかに大事かを知った。

　ところで周りの女性たちは、ご来光など見れなくてももうどうでもいい、と話していた。とにかく無事明日帰れるかどうかだけを心配していた。

　さて、私はいったいこのときどう思っていたのだろう。もうとっくに剣ヶ峰などあきらめていたのだろうか・・・。
　こういうことって、後になってしまうと案外分からなくなってしまうものなのだ・・・。

● 夜は更ける

　食事を終えた私はまた寝床に戻ってきた。多分時間は9時ぐらいだったはずだ。
　もうあとは何もすることがない。とにかく寝るしかなかった。

　しかし相変わらず右隣の親子の、知的障害者の子は、「フギャフギャア！ホゲアゲ！」と、ものすごい奇声を発しながら寝ている。
　親父の方は、もう慣れたものなのか、全然気にしてない様子だった。

　そのうち恐るべきことが起こった。それまで静かに寝ていた左隣の親父が、猛烈なイビキを発し始めのだ。こちらは、

「ウガガガガガガ！」

という、典型的な大イビキだった。
　彼の隣には3人の女性がいる。最初こそ「ウフフフフ」とか笑っていたが、そのうち「笑っている場合ではない」と思い始めたらしく、

「すいません。横向いて寝てもらえませんか」

とか注意を始めた。勇気のある女性だ。

　しかし親父は一向に起き上がる様子はなかった。ただ女性が注意をすると一旦イビキがやんだ。
　どうやら睡眠が浅いうちはイビキをかかないらしい。

　それにしても大変なことになった。右側からは「フギャフギャア！ホゲアゲ！」という奇声、左側からは典型的な大イビキ・・・冗談じゃない。それでなくても「枕が変わると眠れない体質」なのに、これでは生き地獄ではないか。

　生き地獄は更に悪い方に展開した。

　すでに書いたとおり、私は知的障害者の子供とその父親と3人で寝ていた。本来4人で寝る1ブロックに3人で寝ていたのだから、まあ一応余裕があったことになる。
　ところが実際には、親父も息子もはっきりいってデブだったから、もう余裕など全くなかった。

　そこにまた親父が1人後から割り込んで（？）きたのだ。

　食堂兼広間に避難していた人たちも、結局10人以上寝床にやってきて、どうやら山小屋は満室状態になったようだった。

　後から割り込んできた親父は礼儀正しい親父ではあった。しかし彼が入り込んだ途端隙間がゼロになり、彼の肩と私の肩が完全に触れ合った。
　そして聞こえてくるはイビキのステレオ攻撃。こんな状態で眠れるわけがない。

　左側の大イビキ親父のイビキは、間違いなくこの晩のチャンピョンだった。隣の女性も時々起き上がっては注意をしていたが、そのうちとうとうあきらめてしまったようだった（あるいは寝たのかも）。

　実は私もじっと我慢をしていただけではない。時々は「反撃」をした。
　すなわち、彼の足を蹴っ飛ばしたりした。すると面白いように一時（いっとき）イビキがやむんだ。
　だけどそれも本当に一時のこと。長続きはしない。

　真夜中、腕につけっぱなしにしていた時計を見て唖然とした。まだ0時前だった。「朝4時までこれがずっと続くのか」と思うとそれが無限の時間に感じられた。

　外からは相変わらず雷の音が聞こえていた。そして雨の音も。いったい明日はどうなってしまうんだろう・・・。